昨日、ノルウェイの森を宮ピーと見て来た。
ビートルズの「ノルウェイの森」、いいですね。
内田 樹さんの、
でも、最後にジョン・レノンのあのしゃがれた声で『Norwegian wood』が流れると、そういう細かな瑕疵は全部どうでもよくなっちゃいました。
と言う言葉に、ひどく共感。
以下、”物語の核心に触れる記述”をします。(ネタバレということ。)
もう観た、観てないけど今後観る予定がない、観るけど読みたいというような方は、どうぞ。
結構適当に書きます。
この映画で、一番ワクワクしたところは、間違いなく、最初のタイトル。
黒バックに、”Norwegian Wood”というタイトルが画面中央下に出て、
その後に、文庫本と同じ感じの書体で右端に「ノルウェイの森」と出る。
静かに文字はアウトしていって、映画が始まります。
もう、ここが、最高潮でした。
高校生の時に、図書館で真っ赤っかと真緑の本の背表紙を手に取ったときの気持ちを思い出しました。
次におぉ、と思ったのは、直子とワナタベ君が毎週日曜日に東京を散歩する場面。
自分でどんどん歩いてワタナベ君を翻弄するくせに、直子はワタナベ君に
「ここはどこ?」
と聞くシーン。
ワタナベ君目線のカメラワークで、菊地凛子演じる直子が
自分に話しかけているような感じがします。
あとは、阿美寮の外の美しい自然。
広大な感じと、広い森にぽつんと迷い込んだような二人を映すカメラワーク。
それから、直子が”なぜキズキと寝なかったのか”を
ワタナベ君に話すシーンの演技は圧巻です。
あとは…うーん、水原希子のミドリは、可愛かったこととか…。
あ、あと、レイコさんの歌う”ノルウェイの森”は、すごく好きでした。
どうして…縁側での”お葬式”シーンをカットしたのか…。
観ていて思ったのは、もう、ストーリーとか、直子とワタナベ君以外のキャラクターの魅力は、
全部犠牲にして(ミドリはまだましな方ですが)、
直子とワタナベ君の「愛と喪失」を描こうとしたんだと思います。
たしかに、そこが主題なんだとは思います。
でも、やっぱりこの物語は、
見ず知らずのワタナベ君と心を通わせて、キュウリを食べるミドリのお父さんとか、
スエズ運河とかのポスターを寮友に貼られてとまどう突撃隊とか、
心の病んだ美少女の企みにより、幸せな家庭から離れて阿美寮で暮らすレイコさんとか、
そういう、ワタナベ君を取り囲む魅力ある人々に支えられて、
二人の物語をさらに深くしているんだな、と改めて思わされる映画でした。
でも、多分、原作を読んだ人なら、それなりに得る物は有るんじゃないかと思います。
まず、この映画を見たことを、他の原作を読んだ人とあれこれ批評できる、ということ。
そうすると、自分が違和感を感じた所が、意外に受け入れられていたり、
その逆が有ったりします。
昨日電話で話した高校時代の畏友しんじ君は、直子のイメージは菊地凛子で良いというのですが、
僕は(演技はすごいとおもったけど)、イメージしている直子とはかなり違いました。
そういうのが分かる材料って、なかなかないじゃないですか。
頭の中でイメージを作れることが小説の良い所だと思いますが、
そういうものの、自分と、他人との差異が、この映画を”ものさし”にして慮れるという
ことです。
これと、改めて原作を読み直そう、と思わせてくれることは、
”映画化”の持つ意味のひとつだと気づきました。
観た人、ぜひ感想聞かせてください。
でも、これ、絶対原作読んでいない人には何も伝わらないと思います。
ミドリが僕のことを好きになるのも、”単なる一目惚れ”みたいに感じられるし、
レイコさんは、内田樹曰く、「ただのエロいおばさん」になってしまっています。
突撃隊に至っては、エンドロールでしか名前出てこない、変な人です。
永沢さんも、ハツミさんも、なんか「つけたし」っぽい登場の仕方になっている気がします。
でも、なんだかんだ言ったけど、ノルウェイの森を映画にしたら、
こうなっちゃうと思います。
それはけっこう必然的なことだと思います。
小説だからできること。
映画だからできること。
そういうのは、やっぱりあるよね。
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