おススメブログ-「内田樹の研究室」

理系の大学生、そして大学院生として生活を送っていた頃、欠かさずに読んでいたブログ。それが、内田樹さんのブログである『内田樹の研究室』でした。

今は無きGoogle readerというサービスを使って、更新があると食い入るように読んでいました。おそらく、特に熱心な読者であった2009~2012頃の記事はすべて目を通していたのではないでしょうか。

当時、物理というわけのわからないものを勉強し、そして当然のように壁にぶつかることで、また教職課程を取ることで自分の将来に「教師」という選択肢が生まれたことで、「学び」とは一体何なのか?というこれまで見て見ぬふりをしてきた疑問に真正面からぶつかっていたのではないか、と思います。そして解決策の見えない中でもがく私の脳と心に、内田さんの言葉がすっとしみ込んでいったのではないかと思います。

乾ききった喉を潤すように、特に以下にご紹介する記事を何度も何度も読んだのを思い出します。学生の頃にやっておいて良かったな、と思うことはいくつかありますが、このブログを読むのに使った時間も、その一つだと思っています。

前置きが長くなりましたが、早速、おススメの記事を紹介します。(古めの記事ばかりですみません。)

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壁と卵(2009/02/18)

壁と卵 - 内田樹の研究室
村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチが公開されている。 非常にクリスプで、ユーモラスで、そして反骨の気合の入ったよいスピ...

小説家・村上春樹のエルサレム賞受賞式でのスピーチについて。抜粋した原文の英文と、内田のオリジナル訳がついている。
有名な一節、

高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。

について。当時、このスピーチについて、「あえて”私は壁の側を選ぶ”というなら話はわかる。なのに、弱い卵の側に立つ、というのでは何の意外性も無いつまらないものだ」というような声があったことを覚えている。

だが、内田さんはブログでこう指摘する。

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。

※太字:ton2net著者

「弱さ」は「正しさ」とは別の概念であり、弱いことはしばしば間違っており、さらにここでいう「弱さ」は、人間を蝕むポテンシャルをも持つ恐ろしいものでもある。それでも…と村上春樹は主張しているのだと、内田は言う。だからこそ、「私は卵の味方です」と断言するところに、このスピーチの意義がある、と指摘している。

この後、村上春樹のある小説の「弱さ」について語られる部分への引用につなげるあたり、うーむと唸らされました。短めですぐ読めます。ぜひどうぞ。

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学びと暗黙知(2009/01/28)

学びと暗黙知 - 内田樹の研究室
後期最終日。 朝から忙しい。 11時にアートマネジメントのインターンシップについて連絡のため登校。 お昼ごろに卒業生の福...

私が内田さんのブログで最もハッとさせられた記事の一つです。「学ぶ」とはどういうことだろう、という話。少なくともそれは、意味が分かった上でじゃあ学びましょう、ということではないという前置きの後、こちらの文章に続きます。

「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。

※太字:ton2net著者

受験勉強、大学のテスト、そして就職のための試験。「勉強」と呼ばれるものをするたびに、「何のために勉強をするのか」という疑問が幾度も首をもたげる。それを直視せず、「今やっておけば、試験で困らないから」という理由でなんとなく頑張る。

ただ、この「暗黙知」という言葉の概念を内田のブログで読んだときに、根本的に自分の問いが誤っていたことに気づいた。そもそも、それは暗黙知という定義の前では「勉強」ですらなかったのかもしれない。

読んだ当時も、今もこの記事はよく理解できない。でも、なんだか大事なことを言われているということはわかる。これも「暗黙知」の一種なのだとしたら、少しは成長したのかもしれないと思う。ずっと考えるべきテーマを与えてもらったように感じるblogだった。

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足元を見よ(2009/01/13)

足元を見よ - 内田樹の研究室
ジブリが出している「熱風」という雑誌がある。 そこに宮崎駿が2008年11月20日に日本外国特派員協会で質疑応答があった...

このブログの良い所は、内田の言葉だけでなく、興味深い引用に出会える点にもあると思う。たとえばこの記事の、宮崎駿の引用。ハンガリーの記者の「日本の観客と世界の観客の違いを意識しているか」という質問に対してだそうです。

「実は何もわからないんです。僕は自分の目の前にいる子供達に向かって映画をつくります。子供達が見えなくなるときもあります。それで中年に向かって映画をつくってしまったりもします。でも、自分達のアニメーションが成り立ったのは日本の人口が一億を超えたからなんです。つまり日本の国内でペイラインに達することができる可能性を持つようになったからですから、国際化というのはボーナスみたいなもので、私達にとっていつも考えなければいけないのは日本の社会であり、日本にいる子供達であり、目の前にいる子供達です。それをもっと徹底することによってある種の普遍性にたどり着けたらすばらしい。それは世界に通用することになるんだ、って。」(『熱風』、2009年1月号、スタジオ・ジブリ、p・61)

※太字:ton2net著者

この後、内田が師匠から「足元を見よ」という薫陶を受ける興味深いシーンも必読です。

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福翁の激しい勉強法(2008/12/25)

福翁の「はげしい」勉強法 - 内田樹の研究室
文部科学省は22日、13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基本」...

後が読みたくなる文章、という意味でここまで鮮烈なものを私は知らない。「学びの動機」に関する、福沢諭吉のエピソードを引用している。

「努力と報酬が相関すれば人間は勉強するようになる」というのは合理的なように見えるが、人間観察に欠けた判断と言わなければならない。
私たちをはげしい勉強におしやる動機はたいていもっと「不合理」で、もっと妄想的なものだからである。
そして、ひとは「はげしく勉強する」ことなしに、「檻」を破ることができない。
水村さんも引用している『福翁自伝』の福沢諭吉は日本最初の英語学習者の一人である。
福沢ははじめ緒方洪庵の適塾で蘭語を学んだ(英語にシフトするのは、そのあとのこと)。
その勉強は文字通り「昼夜の区別なし」の「はげしい」ものであった。
福沢は一度熱病を患って床に就いたことがあり、そのときはじめて過去一年間、「夜具を掛けて枕をして寝るなどとうことは、ただの一度もしたことがない」ことに気づいたほどである。
なぜ、それほどはげしく勉強したのか。

※太字:ton2net著者

この後、さらに『福翁自伝』からの引用で福沢諭吉の勉学の原動力に触れた後、これとは真逆ともいうべき現代の教育指針を、次のように批評する。

「いかに少ない学力で、いかに高い学歴を獲得するか」という競争にこの国の子どもたちは熱中している。
問題は「費用対効果」だからである。
「中学生程度の学力で一流大学に受かる」というのは、「電話一本で1億円稼いだ」とか「キーボード叩くだけで巨富を積んだ」というのと同類の「クレバーな生き方」なのである。
利得という「にんじん」をぶらさげて子どもを利益誘導して勉強させれば、必ず子どもたちは「にんじん」だけ手に入れる方法を考え出す。
英語ができると「いいこと」があると教えられれば、「できるだけ少ない英語の学力で、『いいこと』だけ手に入れる方法」を考え出す。
論理的に考えて一番効率的なのは、「同学齢集団の英語学力をまとめて低下させること」である。
競争における相対優位を占めることを「にんじん」にすれば、子どもたちは必ず「自分以外の子どものやる気を殺ぐ」という戦術を採用するようになる。
それがもっとも合理的だからである。

※太字:ton2net著者

学びからかけ離れた学び。教育を受けたものとしてわかるような気がするし、こうなってしまった世界のことを考えると空恐ろしい気持ちになる。「こうなってしまった世界のことを考えると」という通り、まだ、そうはなっていないような気もする。ペンケースに画びょう入れたりとか…。いやもう発想が古いですね。

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書いたり、しゃべったり(2009/10/02)

書いたりしゃべったり - 内田樹の研究室
あまりに忙しくて日記を更新する暇がなかった。 月曜から大学が始まった。会議が三つと授業が一つ。 火曜日は昼から夜まで卒論...

内田の経験談には引き込まれるものが多いが、私が読んだ中で、一番引き込まれたエピソードがこちらの記事の中のもの。なぜだろう?内田が合気道の道場を開いたばかりの頃の、ある台風の日のエピソードである。

台風の日、雨の中、大学から帰り、体育館に向かい、無人の体育館に一人で18枚畳を敷いて会員が来るのを待った。
誰も来なかった。
1時間ほど待ったところで近所に住んでいる中学生がそおっとドアを開けて体育館の中を覗き込んで、びっくりしたように「あ、先生、やっぱり今日も稽古あったんだ」と言った。「台風だからさ、もうないのかなと思って。」
いつだってやるよと私は答えて、彼と1時間ほど差し向かいで稽古をした。
その日、外で台風が吹き荒れているときに、無人の寒々とした体育館で誰かが合気道を稽古しに来るのを待ちながら、自分はどうして「こんなこと」をしているんだろうと考えた。
「教わりたい」という人がおらず、「教えたい」という人だけがいるというのは非合理なんじゃないかと思った。
でも、「合気道を教わりたい」という人が何人か集まって三顧の礼を尽くさないと「教えない」というようなことを条件にしていたら、合気道は永遠に普及しない。
教えるというのは本質的に「おせっかい」であり、無人の道場で「教わりたい」という人が来るのを待っているというのが、あるいは「教える」ということにおいてはごく自然なかたちではないのか、とそのとき思った。

※太字:ton2net著者

なぜだろう。二人だけの体育館の会話が目に浮かぶようだ。これが、内田の言う「身体性」なのだろうか。こんな文章が書けるようになりたい。そのためには…と、読んだ後、自転車で暗い寮への道を帰りながら色々考えたのを覚えている。

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☆こびとさんを大切に(2009/10/03)

こびとさんをたいせつに - 内田樹の研究室
金曜日はゼミが一つと会議が三つと杖道の稽古。 1年生の基礎ゼミの第一回目。 この何年か、1年生のゼミが面白い。 大学のゼ...

特に読んで頂きたい記事なので、タイトルに☆をつけました。これは必読です。人生のいろんな場面で、「こびとさん」のことを考えました。これが物語の力、なんじゃないかなあと思う。

古今東西、賢人と呼ばれる人は、「自分の「知らないこと」を知っている」ことに疑問を持っていた。実は知性というのは、意識できる領域と無意識の領域の二重底になっているのではないか…という話。さてその二重底の下の部分、にしっかり働いてもらうための実践的な方法がこの記事に書かれている。

私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。

※太字:ton2net著者

「スランプ」という状態の定義まで、この「こびとさん」で説明がつくというのが、本当に面白い。私は、この記事を読んで、漠然と抱いていたスランプへの恐怖心がなくなりました。理由がないわけじゃない。「こびとさん」にできることはあるんだ、と思ったからです。

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「おせっかいな人」の孤独(2008/12/20)

「おせっかいな人」の孤独 - 内田樹の研究室
鹿児島に行った話を書き忘れていた。 鹿児島大学におつとめの旧友ヤナガワ先生に呼ばれて、鹿児島大学が採択された教育GPの一...

たしかに研究室でも、”誰のものでもない仕事”ができる人は、
やっぱり研究もきちんとできている気がします。
自分の意識を見直すきっかけになりました。

おススメブログです。

本とか映画の話
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コメント

  1. ota より:

    SECRET: 0
    PASS:
    むかし内田樹の本を読んだのがキッカケで、それ以来ずっと週1くらいでチェックしてますよそのブログ。
    この人、何を前提にしているのかっていう話が多くて、たまにその視点にスゴく感動するんです。 Like

  2. ton2 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    おっ!すばらしい。
    普通に本とか新聞のコラムになるようなものをブログに書いているところがすごい。視点が鋭い、確かに。 Like

  3. Сialis より:

    SECRET: 0
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    タイトル : Сialis
    おススメブログ-「内田樹の研究室」 : 新しくなったton2net… more

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