「Behind The Curve – 地球平面説」が訴える危険

先日、面白いドキュメンタリーを見た。「Behind The Curve – 地球平面説」という番組(映画?)だ。

最近になって「地球は球でなく平面であり、宇宙から見た地球の映像などはすべてねつ造である」という「地球平面説」を信じる人・フラットアーサー(Flat Earther)が増えている…という話は耳にしていた。

「ハッ…この現代に何をバカな…」と思うかもしれないが(私は思った)、この一見あたりまえの”常識”が、こうした疑似科学を広めてしまう素地を生み出しているのではないか…という話(だと僕は思いながら見ていた)。

ドキュメンタリーの主人公は、フラットアーサーYoutuberだ。「地球平面説」をYoutube上で主張・解説する男女を中心に展開されていく。(もちろん、科学者やサイエンスライター、心理学者など様々な立場の人が出てくるのだが、あくまで主人公はフラットアーサーたちだ。)

彼らは、独自のコミュティを形成している。ネット上で知り合ったフラットアーサーたちは、集会や勉強会を開いたり、時には仲間同士で恋が芽生えたり(主人公の2人が完全に「甘酸っぱい関係」ですごく面白い)、あるいは敵対したり、衝突したりもする。

同じ地球平面説を信じ、”政府の陰謀”を暴こうとしている人たちどうしなのに、一方を「CIAの回し者で、捏造された実在しない人間だ」などと罵ったりしている。

罵られたフラットアーサーのひとり(女性)が、「何を言っても「陰謀」「ウソ」と返されて、反証のしようがないのよ…」と言うシーンは、なんとも味わい深い(NASAは月に行ってないし、学校で「自転」を教えるのは陰謀だと主張している彼女が、陰謀といわれる側の気持ちを味わっているという…)。

さて、見続けると途中で「…えっ!?」と思わせられる場面が出てくる。
それは、精密な測定装置を購入して、地球が球状であり自転していることを、自らが証明してしまうという場面である。

200万円以上もする精密なジャイロスコープを購入したあるフラットアーサーの男性(エンジニアらしい)は、1時間に15度、地球が自転しているというデータが「取れない」ことを証明しようとしたのだが、実際に測定するとデータが「取れてしまった」のだった(当然のことなのだが)。

その結果を見たフラットアーサーの反応に、またうーむと考えさせられる。
「ああ…残念です。これは誤った結果なので、良い結果が出るように違う測定方法を考えます」。

つまり、この男性にとって測定とは「信じたい物の裏付けを探す行為」であって、「世界は本当はどうなっているのか?」ということには実は興味がないのではないか…ということらしい。
(彼曰く「天空からのエネルギーが測定を狂わせるので、遮蔽をして測定する」ことにしたらしいのだが、結局、結果は同じだった(当たり前なのだが)。)

しかしこれには、結構びっくりした。

信じてしまう、といようりは「信じたい」
という方が近いのではないか…と、このドキュメンタリーは主張しているように思う。

ではなぜ「信じたくなってしまう」のか?番組の後半で、実はそれは「科学者の側にも責任がある」のだと、科学者自身が話し始めるところが興味深い。

何かのきっかけでたまたま地球平面説に興味を持っただけだったとしても、その話題を出しただけで、”普通の人”は、「トンデモだ」「あり得ない」「普通じゃない…」と彼らを疎外してきた。

疎外された人々は、疎外する側を憎み(科学的の一般常識をも憎むようになり)、”阻害された人々”のコミュニティを大切にしたいと考え始める。

少し話はそれるが、最近、皮膚科の医師である大塚 篤司さんが十数年前に「会えなかった」患者さんに向けたメッセージを綴ったという、素晴らしい記事が話題になっていた。

ステロイドは毒!と信じて疑わない”反ステロイド”のお母さんを、先輩医師が「なぜこんなになるまで放っておいたんだ!」と叱責し、治療のため大塚さんの診察予約を取らせたものの、結局そのお母さんは二度と病院には現れなかった、という内容だ。

大塚さんは「もし今、彼女と話ができたなら…」と、ステロイドに関するデマや誤った風説について、丁寧に根拠を述べ、否定していく。しかし、ただ否定するだけでは「どちらが正しいか」を明らかにするだけで終わってしまう。

あのお母さんの行動は、結果的には誤っていたかもしれない。でも、その行動の動機は、きっと純粋な子どもへの愛情だったのではないか、と大塚さんは考える。

大切なことは、まずは子どもを思う愛情を肯定した上で、子どもにとって最もいい道を一緒に模索することなのではないか、と。

ドキュメンタリーの終盤、心理学者でライターのペール・エステン・ストクネスのインタビューが印象に残る。

この論争を戦争だとすると、勝者と敗者が出てくる。
相手が自分をバカにすると・・・相手の話を聞きたくなくなり、
相手が話す間にも、反論しか考えなくなる。

そうではなく、「一緒に探求しよう」という方が、
論争よりも進歩がある。

科学的に「正しい」ことを指摘し論破することは、その人が「なぜそれを信じる(信じたい)のか」という気持ちを置き去りにし、孤独にさせているかもしれない。

そして孤独になった人々は、次第に同じ境遇の人たちに引き寄せられるのかもしれない。

英語で「Ahead of the Curve」は時流の先端に、という意味らしい。逆にこのドキュメンタリーの英語タイトルである「Behind of the Curve」には取り残されたという意味がある。

フラットアーサーたちをどこかに取り残しているのは、誰なのだろうか?

ひょっとするとそれは、”良識を持ち合わせた”(と思っている)私たちかもしれない。

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