最近、図書館で借りた司馬遼太郎の「この国のかたち」6(文春文庫)に、面白い話があった。
『坂の上の雲』執筆にあたって、”書斎の船乗り”となって国内外の帆船・航海・海流の本を読み漁った…というエピソードだ。
さらには、船乗りの体験記や海洋小説を読んだ。これらは表のついた資料よりも、じかに海風が体の中に入ってくる気分を持たせてくれた。そのなかでも、C・M・パーキンソンの『ホレーショ・ホーンブロワーの生涯とその時代』は18世紀の英国の帆船時代を感じるのに役に立った。
この『ホレーショ…』という著作には、提督であったというホーンブロワーは一介の庶民から身をおこして海戦で功を上げ、最後は元帥になり、バス最高勲爵士に叙せられた人物だということが記されている。
ホーンブロワーは子孫に向かって「100年たつまで、決して開封してはならぬ」という秘密の手紙を残した。『ホレーショ…』の著者であるパーキンソンは、この手紙を相続する6代当主の厚意によって、幸運にしてこの手紙の中を見ることができたという。
その手紙の内容は、この18世紀の船乗りに関する詳細な記録資料のありかであった。パーキンソンは大変な苦心の結果、記録資料にたどりつき、その内容をもとに『ホレーショ・ホーンブロワーの生涯とその時代』が書かれたのだ…と語る。
だが、実はこれは全てウソだったらしい。
ウソだからこそ、逆に無数の「実在の証拠」をこれでもかと並びたてることができた。巻末の詳細な年譜や、扉絵に掲載された「ホーンブロワーの油絵の肖像画」は、わざわざ当時、流行した画風で描かれていた。また著者のフォレスターの18世紀の船乗りに関する知識によって、ある意味、「本物よりも本物らしく」感じるところがあると司馬は語っている。
著者は船橋に立つ航海士のように、風や波や海流に通暁している。また掌帆長のように動索と静索をたくみにあやつり、また砲撃されて折れた主檣の帆桁の破片を避けながら甲板を走っている水夫のような機敏さもその叙述はもっている。さらには造船上の知識をもふくめ、それらの事実群の浮子に浮かびあがらされた主人公がいかなる実在者よりも、その時代の英国人の典型たるにふさわしい人物になっているのは、愉快なほどである。

ウソが、実在することよりも本当らしく見える…という話で思い出すのは、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』に関するエピソードだ。
この本の「著者のモノローグ」で語れるパートの中には、彼自身が影響を受けたとされるデレク・ハートフィールドという作家が登場する。
少なくない数の大学生が、大学図書館の司書に「ハートフィールドの本が見つからない」と真剣に相談した…そうだ。
この話自体も、真偽の確かめようがないわけだが、確かに『風の歌を聴け』の中にはご丁寧に著者がハートフィールドの寂れた墓を訪ねる、というドキュメント風のシーンまであり、私も本を読んだかなり後になって、「あ、あの小説家って本当は、いないんだ」と知ったのを記憶している。(実際に著作を読んでみたいとは思わなかったが)。

村上春樹の「ウソ」にまつわる作品といえば、『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』という短編も印象深い。
これは、村上春樹自身が「ことの始まりは僕が大学生時代にね…」と語るという体の作品で、なんでも彼は大学時代にバイトとして音楽雑誌にレコード評のようなものを書いており、冗談で「Charlie Parker Plays Bossa Nova」というありもしないレコードについて書いたところ、編集者は何の疑いも持たずにこの記事を、実際に雑誌に掲載されてしまう。
著者(村上春樹と思って読んでいる)がそんなことも忘れてしまっていた、何十年も後のとある日、レコード店で自分が「創造」したレコードが、現実にジャケット付きで売っているのを発見してしまった…という筋の話だ。
この短編が収められているのは短編小説集なのだから、
- ウソのレコード評を書いて、実際に雑誌に掲載された話
- 自分が作り出した架空のレコードに出会った話
どちらも創作であると考えるのが妥当であろう(後半のチャーリーパーカーが夢に出てくる話も含めて)。
ただ、エッセイ調で、ことの細部までが語られていることと、「小説(ウソ)の中に、ところでこれは実際にあった話なんだけど…というウソが紛れている」という複雑な「ウソの入れ子構造」(劇中劇的な構造だ)が、結局どこまでが本当でどこまでが嘘なのか?という浮遊感のような後読感を残している。
この作品自体は実在するので、興味ある方はぜひ読んでみてほしい(村上春樹「一人称単数」所蔵)。
ちなみに、この作品中に出てくる「ウソのレコード評」の中に、そしてこの短編自体の末尾に、まったく同じ文章が使われていて、なにが本当で何がうそなのか、感を増している。
信じた方がいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。

そういえば、村上春樹は2009年のエルサレム賞のスピーチで、下のように語っていた。
Namely, that by telling skillful lies – which is to say, by making up fictions that appear to be true – the novelist can bring a truth out to a new location and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth lies within us. This is an important qualification for making up good lies.
つまり、巧みなウソをつくこと——言い換えれば、真実のように見えるフィクションを作り出すことによって、小説家は真実を新しい場所へ引っ張り出し、そこに新しい光を当てることができるのです。ほとんどの場合、真実を本来の形のまま捉え、正確に描き出すことは事実上不可能です。だからこそ私たちは、隠れている真実をおびき寄せ、フィクションの場所へ移し替え、虚構の形に置き換えることで、その尻尾を掴もうと試みるのです。しかし、これを成し遂げるためには、まず私たち自身の内面のどこに真実があるのかを明確にしなければなりません。これこそが、良い嘘をつくための重要な資格(条件)なのです。
巧みなウソは“真実”を滲み出させ、そうしたウソが「良いウソ」だという風に語っている。
こうしてみると先ほどの『風の歌を聴け』も『チャーリ・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』も、村上春樹の気骨の入ったウソが盛り込まれている作品のような感じがして、なんとなく、なるほど、という納得感を持って読める気がする。
このスピーチはこの後、最も有名な「壁と卵」の部分へと進んでゆく。
Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”
Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will decide. If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
しかし、どうか私に、非常に個人的なメッセージを一つ伝えさせてください。それは、私が小説を書いているときにいつも心に留めていることです。紙に書いて壁に貼るというようなことまではしていません。むしろ、それは私の心の壁に刻み込まれているものであり、大体次のような内容です。
「高く堅い壁と、それにぶつかって割れる卵があるならば、私は常に卵の側に立つ」
そうです、壁がどれほど正しく、卵がどれほど間違っていようとも、私は卵の側に立ちます。何が正しく何が間違っているかは、他の誰かが決めなければならないことです。おそらくは時間や歴史がそれを決めるのでしょう。もし何らかの理由で、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そのような作品にどんな価値があるでしょうか?
この「壁」と「卵」とは、それぞれ、何を指しているのだろうか。
村上春樹は、このあとのスピーチで、具体例として
・壁…爆撃機、戦車、ロケット弾、そして白リン弾
・卵…それらによって押しつぶされ、焼かれ、撃たれる非武装の民間人たち
と明確に示したのち、さらに抽象化した「壁=システム」「卵=私たち」というメッセージを伝えている。
当時、2006年から続いていたガザ紛争の当事国であるイスラエルに赴き(周囲からは反対されたという)、当時のペレス大統領も出席する中で暴力を非難した、力強いスピーチである。
なのでこの「壁と卵」には特に別の解釈をする余地もないのだが、冒頭の司馬遼太郎の本を読んだ後、ぼんやりとこのスピーチのことを思い、「壁」は真実、「卵」はウソ、というような考え方もできるんじゃないか…ということを思った。
ウソは、ウソなので、たとえば調べれば「ホレーショ・ホーンブロワー」なる船乗りなど、いないことは証明できる。ソリッドな真実=「壁」の前では、ウソ=「卵」は無力のように感じる。
でも、本当にそうだろうか。
ある種類のウソには、真実以上に真実を語りかける力がある…という村上のスピーチの一節。何を信じればいいのかわからない世の中で、ファクトを確かめながら生きることは、間違いなく重要である。ただ、その中にあって、自分は「巧みなウソ」の重要性も支持し続ける存在なのだという主張にも、聞こえなくもないなと思ったのである。



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