100325対談まとめ(コミュニケーション学研究者)
言葉とは、意味のパッケージである。
例えば、ひとことで「恋愛」と言っても、その言葉が意味する所は
千差万別、百人十色だろう。
しかし、「どんな人でも”恋愛”といえば根っこのところは同じ」
だと共通認識を期待してしまうところにディスコミュニケーションの原因の一端がある。
何か言葉があったとして、その言葉のもつ意味は、自分にとって何なのか?を考えないと、
時間と労力を費やした結果、「自分が求めていたものは一体なんだったのか」
と壁にぶちあたってしまう。
「○○は、自分にとっては××ということです」は、常に更新されるべきものだが、
何も考えず言葉の持つ抽象的なイメージに突き動かされることを、最近個人的に
「言葉のブラックボックス化」
と呼んでいる。
本当は、物や事象や心の動きがありきで、それに単語という名前を与えることが言語化だが、
今は先にその言語を知ってしまうことが少なくない。
概念を取り扱う単語は、なおさらだ。
アン・サリバンがヘレン・ケラーに教えた大切なことは、このことだ。
井戸の水を手にかけた瞬間、ヘレン・ケラーの家庭教師だったサリバン先生は
もう片方の手に”water”という文字をなぞった。
この時ヘレン・ケラーが悟ったのは、
冷たくて、流れて行った後も少し手にまとわりつくこのものに名前がついていて、
それが”water”なのだ、という「言語」というものの根本的な概念だった。
それまでもヘレン・ケラーに単語を教えようという試みはあったのだが、
「言語」というものがそもそも何か?が分からなかったために、
ひとつとして成功しなかった。
サリバン先生は、それを教えることが出来たのだ。
言葉は単に言葉であるが、言葉の素晴らしい点は、
その背後にあるとてつもなく大きなものの存在にある。
もし言葉というものが無ければ、私たちは日常で出会う瑣末なことを
他人に伝えるために、人生の大半を費やすことになるだろう。
コメント