ことし、酷暑の折には都内の人気(ひとけ)のない沢に行き、沢登りのようなことをしたり、たき火したりして遊んでいた。
いつ行っても、誰もいないので、新型コロナも気にならない。子どもも喜んでじゃぶじゃぶしておる。
難所といえば、唯一、車を止めて、沢に降りる道が少し急なことだけ。とはいえ、徒歩3分。奥さんと子どももいるのでスリングを持っていってみた。
すると子どもがはまってしまった。笑
帰りに、スリングを使ってのぼる…というよりは、スリングに夢中になって全然、車にたどりつかない。笑
まあ、いいか、と思って子どものちょっと下で安定な足場を探してふうと息をつく。
こういうとき、普通に歩いていたら気がつかない色々に(ひまだから)目がとまることが多い。目を向けてみると、山には実に多くの命と、様々な情報であふれている。
大学で山を登っていた頃のことを少しだけ思い出す。
入りたての頃は、とにかくつらくてしんどくて、周りを見る余裕など全くない。先輩を待たせて、なんとか追いつく。それが悔しかった。
時がたつにつれ、体力がついてくるのと、歩き方のコツというか「体力のとっておきかた」みたいなものが少しわかってきた気がする。気がつくと、自分より若い人が入ってきていて、自分が「待つ」側になっていた。
そういうとき、待ってもらう側のひとたちはみんな一様に「すいません」と言った。自分も、待たれていたときにはそう言っていた。でも、待っている方は別にあやまられることはない。むしろ、そういう時間に色々な発見があった。
不思議な色の花、見たことのない虫、思い出せないけど懐かしいような匂い…。
「待つ」ということがなければ通り過ぎていたものに、気づくことができることもあるんだな、と山で知った。
最近は、待つ、という行為が少なくなってきたように思う。隙間の時間があればスマホを見て、それは待つ時間ではなくてスマホを見るという時間として塗りつぶされてしまう。
山でスリングに夢中になる子どもに待たされる以外にも、もう少し日常の中で、待ってみてもいいのかもしれない。
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