交通事故と泣いている女の子

日曜日に交通事故に遭った。
結構本格的に遭った。

助手席に乗っていたのだが、車が左へそれて
歩道に乗り上げて街路樹に激突。

左の鎖骨を骨折した。

鎖骨一本折るだけで生活がずいぶん面倒くさくなる。
もろいもんだね。

しかし、この程度の怪我ですんだのは不幸中の幸いである。

事故の次の日に、学校を休んで歩いて大学病院まで行った。

図書館の前で泣いている女の子がいた。
横を無常に通り過ぎていく自転車の流れ。
鎖骨を折ったりしなければ止まれない場所ではあったかもしれない。

近づきながら、なんと声をかけようか迷う。
結局ありきたりな「あの・・・大丈夫ですか」を選択する。

女の子は、泣いていた。

泣いていたといっても、今あなたが想像しているような
”めそめそ”とか”しくしく”といった泣き方ではない。
かといって、”おいおい”というような泣き方でもない。

彼女が顔を上げたときに、僕は
(泣くってこういうことことなんだな)
と思った。
広辞苑の「泣く」の項目に付け加えたいような泣きっぷりだった。

涙と鼻水がほんとに滝のように流れていた。
場所に似合わないけれど、僕はなぜかとても素敵だな、と思った。

自転車で転んだ、と彼女は言った。
右足が痛む、と言った。
そんなに痛いのか、と聞くと、
少し黙って、悲しいことを思い出したのだ、とうつむきながら言った。

その「悲しいこと」を僕は聞くことができなかった。
そして、今の僕には彼女の「悲しいこと」を知るすべはない。

「悲しいことが何であったか」を聞く代わりに、
僕は昨日の事故のことをなるべく笑えるように話した。
がんばった。こういうところに活きてくる。
その話は「昨日鎖骨を折ってさ、」からはじまって、
「着替えは拷問だ。」で締めくくられた。

話している途中で彼女は何度か笑ってくれた。
笑うということは、本当に偉大なことだと思う。

「人生いろいろあるけど、」とかなり適当なこと言っているなと思いつつ、
「がんばってね!」と言うと、笑って手を振ってくれた。

他人は自分を写す鏡だという。
彼女を元気付けようとしていたわけだけど、元気付けられたのは、
今にしてみれば自分だったようにも思う。

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