死ぬことについて、あるいはご飯の咀嚼について

小学生の頃、「人はいつか死ぬ」ということに気づき、眠れなくなったことがあった。

そうした幾晩を過ごした後、「ただ、逃れられない死について考え、恐怖することは意味がなく、今を生きることにリソースを使うべきだ」と思い、いつしか、あまり考えなくなった。

だが最近、子どもが生まれて40も近くなって2倍の時間をいきるともう80かといったことを考えるうちに、「あぁ、家族も自分も、いつかは死ぬのだなあ」とたまに、また考えるようになった。

きょうは、そんな日に備えて、ここに遺書を…というわけではなく、死ぬならなんで生きるの?ということ思ったという話です。

なんか、自分が死んでも子どもが残るし…みたいな、子孫というか、「個としての己は死んでも、人類という種は残る」みたいな発想が一番、簡単なのではないだろうか(自分だけかもしれない)。

でも、その際に気になるのは、「結局、太陽は100億年だがそれくらいに、膨張して最後には爆発してしまう」ということである。『地球を大事に』しても、結局、地球は太陽に飲み込まれてしまうのである。うーん。

しかも、最近、新たなことを知った。それは「地球の地磁気は20〜30億年後くらいになくなる」というものである。

地球の中心は非常に熱いのだが、このドロドロにとけたいろいろな滞留が地磁気を生み出しているそうなのである(適当な説明)。なぜ熱いかというと、地球ができる際に、いろんな小さな星のかけらが衝突したときのエネルギーが熱となって蓄えられているかららしいのだが、これはいつか冷えて固まってしまう運命にあり、そうして動かなくなると、地磁気は消えてしまうらしい。

この地磁気は地球を守るバリアのようなもので、宇宙からの放射線とか害のあるものを防いでくれるありがたい存在らしいのだが、30億年後には地球にはバリアがなくなって「死の星」になってしまうのだという。

後世に遺す…といっても、地球が滅亡したら、なんにもならないような気もする。

でも、地球から脱出して、新しい太陽のもとで新人類は生き延びているかもしれないし、人類が滅亡しても宇宙の歴史にはなんらかの影響を残すのかもしれない。

・・・と、こういうことを考えながら、ご飯を咀嚼しているとき、ありませんか。私はたまにあります。変なこと考えずに、ご飯をよく感じで味わって食べよう。

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