寺田 寅彦が書いている。
ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤーコブ・アインシュタインに、代数学とは一体どんなものかと質問した事があった。その時に伯父さんが「代数というのは、あれは不精もののずるい計算術である。知らない答をXと名づけて、そしてそれを知っているような顔をして取扱って、それと知っているものとの関係式を書く。そこからこのXを定めるという方法だ」と云って聞かせた。
寺田 寅彦「アインシュタイン」
この剽軽(ひょうきん)な、しかし要を得た説明は子供の頭に眠っている未知の代数学を呼び覚ますには充分であった。
なるほど、この文章を読むまで、「得体の知らないものをxとおくことの効用」を
しっかり考えなかったような気がする。
この前、家庭教師をしている中学生にこういう説明をして、ふとこの文章を思い出した。
説明をしながら、ふと思ったのは、言葉も代数のようなことをしている部分があるな、
ということだった。
我々は、「心」というものが本当になんなのか知らない。
知らないけれども、先に言葉が有って、その言葉を使いながら、
嬉しいときや悲しいときに、
「こういうものを、心って呼ぶのかしらん」
と、ふと立ち止まって考える。
物が有って、言葉があるという順序も有れば、
言葉が有って、始めてそのものに気づくということもある。
思い浮かぶのは、「アイデンティティー」と言う言葉である。
この言葉に初めて出会ったのは、高校の倫理の教科書であった。
「自我同一性。自分が自分であること。」
とか書いてある。さっぱりわからない。
でも、この言葉を知った時に、「アイデンティティー」と名付けられた、
未知のものの存在を意識することになった。
そして、頭の中や、時には文章でその言葉を使い、
ああでもない、こうでもない、と考えているうちに。
少しずつ、こういうことかな、という概念を習得して行った。
(最近、それは「誕生日をお祝いする」ということに
深く関係しているのではないかなぁ、と思っている。)
答えは、ばしっと決まる物ではないけれど、
その根本はまさしく、代数学の考え方ではないだろうか。
言葉は偉大だ。
ここにないもの、未だ知らないもの、存在するかどうかわからないものまで、
形のあるもの(文字や、空気の振動など)として扱うことを可能にしている。
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