さりげなく、光ってる一文

身の回りの方のブログ、ツイッターなどを拝見しているが、
そういう記事を読んでいる時に最近、なんかこれまでとは違う脳の働きを感じることがある。
というのも、さりげない一文が光っているように感じる時が有るのである。

気のせいなのか、なんなのか。
でも、ほんとにさらっと書いていて、うかうかしていると読み飛ばしてしまいそうなくらい、
はかないんだけど、美しさと言うか、優しさと言うか、センスの良さのようなものが
そこに感じられるのである。

最近ので言うと(流れがあってこそなので、そこだけコピペしても意味ないのだが)、

「友達が早く会場を出たそうにしてる中、
 自分は白石さんの言葉を聞くのに必死になっていた。 」
—後輩。mixi。成人式の話。

「留学中は、何をしている時でも何を考えている時でも全てが新鮮なんですよね。
 ここにいる時間は、すごく特別な時間なんだと思います。」
—留学中の後輩のメールより。

「そうだそうだ、こんなに違ったんだ。」
—後輩。ブログ。醤油の話。

とかね。
一番上のは、これは何でしょうね。
気のせいですかね。圧巻だったんですよ。読んだとき。
写実の聞いた俳句(実際はそんなん分からんけど)を読んだときみたいに、
情景が、ぱっと目の前に表れるんですよ。

2番面。
これも、すごいですね。
さらっと書いてるけど、これは留学しないとわからない、「言葉にできない感覚」みたいなものを垣間見せている感じがします。

3個目。
これは、読んだ瞬間なんだろうと思って、梶井基次郎と言う感じがしました。よくわかんないけど。
ちゃんと手をかけて作ったものと、科学的に合成された食品を比較して、
その違いを思い出すシーンです。
全然違うのに、後者に馴れちゃってて、でもあることでパッとそれを思い出すんですよ。
これは、全体の流れがとても良いと思います。
ここに、じゅわっと味が凝縮されてる感じがしますね。

力入れて書く所っていうのがあるんですよね。
テクニックを駆使して。
「私は思った。これは永遠。そして、絶え間ない時間の流れのクロス・ポイントなのだ。」
みたいな(適当)。
なんかあるといい感じだけど、対して中身は無いような文章。

でも、ね、「文章を書く」という行為は、当たり前に、その根本に「伝えたい」っていうことが有ると思うんですよ。
で、その「伝えたい」がどこから来るかと言うと、それは心の中にある「伝えたいこと」なんだと思います。
上のお三方みたいに、全然うまいこと書けなくて(考えちゃってるから)、もどかしいんですけど、

なんか寂しくて、切ないな、と思ってる時に、ふっと顔あげたらすごい、見たことも無いような綺麗な夕日が出てて、そう言う時に心で感じるあの「感じ」って有るじゃないですか。

夏の熱い日に、なんかいる、と思って道路をよく見たら、ミミズが死んでて、ありがすごいたかってるのを見た時に、ざわってなるけど、なんとなく目がそらせないみたいな感じがあるじゃないですか。

基本的に書く人は、「伝えたいこと」イコール「書いたこと」にしたいと思う。
でも、なんとなく、今、「伝えたいこと」イコール「書きたい衝動」の方が近いんじゃないかな、と思った。
だって、「なぜ書きたいか」には、「それ」があることが起因するからね。

だから、「書かされてる文章」には、「伝えたいこと」成分は非常に少ないのかもね。
たとえ義務でも、その中で「衝動」を探してトライしたら、少し変わるかもしれない。
…修論とかね。

で、まぁ、たまにこういう風にトライしてみるけど、全然だめですね。
2010年最後のブログも、どちらかということ、このトライの部類だけど、
あんまりうまくいってないです。
多分、「素になる」ってことが関係してるんじゃないかなぁ。
人間、ずっと素ではいられないから、上から色々かぶせるけど、
その上にさらに色々載せてみるのも一つの手。

けど、多分、一番「力ある部分」は、結局根っこで、素なんだと思う。
大学に入ってから、周りの人のおかげで、そういうことに気づけたと思う。

だから、多分上に挙げた三つの文を書いた人は、
「え、なんでこんな適当に書いた箇所を」
って思うかもしれないけど、
なんとなく、根っこに近い、大きなものが後ろにいるような気がして、
あ、そうだね。後光がさしてるような感じ、がしました。

なんとなく、3年くらい前よりは、新しいステージに進んでる感じがあるんです。
(もしかしたら脇道にそれたか、信じられないくらい後戻りしてるか)
けど、これは、また、迷走していきそうだなぁ、と言う感じです。
10年くらいたって、落ち着ければいいかな、と思う。

さ、修論の続き書こ。

まあなんか色々と
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