”水槽”の外から世界を見る

昔、さかなクンが朝日新聞にいじめについてのエッセイを書いていた。

中学だったか、高校だったかの体験。
誰かがいじめられたり無視されたりして、
その誰かがいなくなると、他の誰かをターゲットにしてそれが延々と続けられる。
 
水槽の中の魚に似ていると、さかなクンは書いていた。
広い海ではそんなことは無いのに、
狭い水槽の中に入れた途端、特定の一匹が攻撃を受けてしまうのだ。
 
 
我々にとっての”狭い水槽”とは何だろうか。
ほとんどの人は、「物理的には」どこにでもいける自由を持っているはずだ。
会社に行く途中に、逆向き列車に乗ることは、理論上可能である。
でも、「精神的には」そういうわけにはいかない。
 
 
たしかに、「何もかも捨ててカトマンズに行ってしまえ…」とまでは言えないとしても、
「あれ。考えてみたら実は、わたしって自由」ということを再確認というか、
感じる瞬間ってとても大切なのではないかと思う。
 
それは、”水槽”そのものを見てみるということかもしれない。
”水槽”を見るためには、”水槽”の外からの目線が必要だ。
”水槽”の中が世界のすべてであるならば、”水槽”を見ることはできない。
 
メタ的な視点。
それでいて、毎日を生きるために必要な視点。
 
 
こじつけみたいな終わり方になっちゃうような感じだけれども、
それをこそ「科学」の本来の形ではなかろうか…なんて、思ったりしている。
まあなんか色々と
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