失われた風景に出会う

きょう、午後から東京へ出かける用事があって、
お昼を食べていこうと、
駅の近くのパスタが食べられるレストランに入った。

注文をして、一息ついていると、
隣のテーブルに、若い女の人が一人で座っているのに気づいた。

女の人の座ったテーブルにはお冷が乗っている。
まだ、料理が来ていないのだろうか。
向かいの席にも、お冷やが置かれているので、
誰かと一緒に来ているのだろう。
お手洗いにでも行っているのかなと思って、
そのまま特に気にせず本を取り出して読んでいた。

すると、女の人が店員さんに、
「いま、何時頃ですか?」とたずねるのが聞こえた。
僕は顔を上げて二人を見た。
店員さんが、腕時計を見て、
「そろそろ1時になります」
と告げた。
女の人は、少し表情を曇らせて、
「そうですか、ありがとう」
と答えた。

電車の時間でも気にしているのかなあと思って、
僕はまた、本を読み始めた。

間も無く、僕の席に料理が運ばれてきた。
僕はちょっと、あれっ、と思った。
先に入店した、隣の女の人より先に、
こちらの料理が来てしまった。

サーモンのクリームパスタを食べ始めながら、
僕はそのときになって、ようやく、
この人は、誰かを待っているんだ、と気がついた。

僕が料理を食べ終わっても、事態は変わらなかった。
女の人は、ただぼんやりと窓の外を歩く人を眺めていた。

すみません、と再び女の人が店員さんに声をかけた。
「約束していた人が、来ないようなので、
カウンターに移動してもいいですか。
それと、このパスタを、ひとつ、下さい。」
店員さんは、うなずいて、厨房へオーダーを通した。
席へ案内するときに、
「お連れ様と、ご連絡がとれないのですか?」
と聞いた。

女の人は、別のことを考えていたようで、
ちょっとびっくりしたようだったが、
「ああ、ええ。きょう、わたし、携帯を忘れてきてしまって。
どうしてしまったのか・・・。
でも、いいんです。一人で、食べて帰ることにします。」
と、少しさみしそうに笑った。

電車の時間が近づいてきたので、
僕は席を立って、お会計を済ませた。
店を出るときに、ちらりと見えたその女の人は、
一人カウンターに座って、
厨房の中を、静かにじっと見つめていた。

携帯、というものが世に普及するまでの世界には、
このような光景が、それなりに存在していたのかもしれない。

いまではこのような光景がなかなか見られないというのは、
考えようによっては、「進歩」と言えなくもない。

しかし、良しにせよ悪しきにせよ、進歩とは、
ある光景が、失われるということでもあるのだ。

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